「高山’s CAMERA」に寄せて

本作の成り立ちを申せば、リリースを前提にせず記録され残されたデータと、対照的に公開を前提に撮られた「映画」が組み合わされ、望月本人により編集されたという事情をもつ…と注釈をつけても説明には程遠い。ただネット等に溢れる映像の公式リリースを期待する輩には肩透かしを喰らう。もちろん、演奏のパートも含まれている。ではそれ以外がプライベート・フィルムかといえば断じてちがう。冒頭、パーティの一場面のようにみえるかもしれないが、前もって準備されたステージングである。パブリック・イメージである「サキソフォンインプロヴィゼーション」と他の部分もまったく同等の要素となっている。本作は望月治孝の作品群のなかで、最も孤高の位置を占めることにちがいない。そもそも望月治孝という存在じたいがその位置を占めているというのに。

「映画」の原案はブランショ『アミナダブ』とのこと。翻訳は存在するものの、撮影時には不覚にも未読であった。当日、まったく白紙の状態で「望月監督」の指示でカメラを動かした。これまで何十回も彼のライヴに向かったが、映画製作のカメラマンの如き振る舞いは当方の人生で最初で最後ではないだろうか。深夜の薄暗いホテルの廊下で、望月治孝と彼の影を追う。ライヴの一回性からは遥かに遠ざかり、繰り返しテイクがつくられていく。いったい終着点はあるのか。あてどなく不安に包まれた成り行きへ進むのか。いやそれは杞憂であった。際限のない行為のようでもあるが、私にはその反復の過程に意味が滲み出る。これは自分が再三、経験してきたものと同様ではないかと。

当方が撮影を終えて連想したのは、小川国夫の短篇「アポロナスにて」である(またしても小川国夫か!と呆れてください)。第二短篇集『生のさ中に』の末尾に据えらえた作品。海中に建てた石像が行方不明となり、男と「私」が交互に海に潜って探すのだがみつからない…あらすじはこのくらい。聖書を題材とされているが(そもそも小川国夫の作品は国内外どこであろうと畢竟、聖書の世界なのだが…)、徒労に終わるかもしれない、繰り返される作業。しかしながら行為の流れは目的を越えて、他者とのかかわりの原形につきあたるようだ。望月治孝のライヴに通うことはLP「PAS」のライナーで《巡礼》と表していた。この撮影もまた、時間は凝縮されているが、同じ系列にあたるのだと気づく。はたして、ブランショキリスト教徒であったどうかは知らない。《巡礼》ということばは、佐藤宗盛のライナーノーツにも現われる。

話は移る。同ライナーの氏の母親のことばを引用すれば、《あんたたちがやってることは全部、世の中を馬鹿にしてるってことだよ》。おそらくは母親と当方こそ年齢は近いだろうが、我が子に向かって放つことばとしては懇切丁寧、見事に〈世間〉からの一撃である。この一撃は本作に対してもふさわしい。世間へ、どう寄与しているというのか。ただ鋭い母親の敢えての発言、そこには無意識に羨望の心の動きも含まれてはいないだろうか。本作もまた、間違いなく贅沢のかぎりを尽くした、孤高の創造物なのである。