ライヴに遊びに行ったことがない

 これは一地方在住者の、関西、主に大阪方面のライヴ観戦以前の心得について。※ライヴごときに「観戦」とは何事かといぶかしげるむきもあろうが「観戦」に他ならぬ。
 
 まずは仕事のスケジュールをおさえておく。残業のないよう細心の注意をはらう。早退が可能ならばありがたい。この意味ではサラリーマンはありがたい。
 なんといっても立ちはだかる問題は交通手段だ。当方は、関西地元ではないけれども、なんとか日帰りで往復できるロケーションに住んでいる。ただ私は車の運転があまり好きではない。運転を楽しむことができない。詰まるところ、《ハンドルを持つと人格がかわる》だけのことなのだが。慣れない道を慣れない時間帯に走るのは辛い。《大阪環状道路に突入する》ことなど、かつて予の辞書には存在しなかった。分岐点、オービス、いつなんどき、苦手な渋滞が待ち受けてはいないかと気が気ではない。これらは次第にこなせるようになっていった。だがライヴが終われば、必ず帰路が待ち受けている。とりわけ深夜の名阪国道は神経をつかう。往路では気が付きにくい昇り道、例えば神野口~山添付近が、帰路では単調な長い下り道となって危険地帯となる。これも速度を上げなければなんでもない話なのだが、つい急いてしまう。
 本来ならば公共交通機関である電車で済ませたい。とはいえこちらは往きはともかく、帰りが問題となる。終電の時間だ。さきほどの弁に反するのだが、22時終演となるような多くのライヴでは、実は関西方面からは鉄道による帰宅はほとんど不可能なのである。例えば難波Bearsとして、逆算して21:45終演ならばぎりぎりで終電乗車可能なのだ(ライヴハウスではない、大ホールでのコンサートならばたいていは21時までに終演だからまったく問題は発生しない。ただそのような類の体験はずいぶんと遠ざかってしまった)。四十代で大阪往きを始めた頃、大事をとってもれなく一泊を要した。難波周辺のビジネスホテルはまだ安価であったし「Hard Rain+ホテル関〇」のゴールデンタッグも頻回に体験した。しかし翌日帰宅は家族にとってすこぶる評判悪い。帰宅する分だけ午前様のほうがまだ好ましい。いつぞや十分に帰宅できるつもりでライヴに臨んだところ全く歯が立たないことが判明したので、自宅に「急遽泊まるわ」と連絡したところ無言でガチャンと切られたこともある。
 ならば話は戻って、やはり自家用車に頼るしかないのか。いやそう簡単には言えない。私は、運転があまり好きではない。そこで「途中の駅までは車で、残りを電車で乗り継ぐ」という方法を編み出した。某駅までは自家用車で乗りつけ、で残りは鉄道。直通よりも終電を延ばすことができるし、大阪市内とか峠を運転せずに済む。しかしこれとて万能ではない。つまるところ新たな終電の時間厳守に縛られてしまうのだ。「終演時間はだいたいこんなもんやろ」と高を括ると失敗する。余裕と踏んだライヴなのに、思いがけず(いや、いつものように、だろうか)時間が押して、終演時間が延々とずれ込んでいく中でのライヴ観戦。これでは音楽に集中できない。なんのために遥々訪れたのか、本末転倒ではないか。こんなことだけは避けたいと思いつつもしばしばやらかしてしまう。対バンがいくつかあり、お目当てのアーティストの登場はおそらく早めに違いないから対バンには失礼ながら途中でお暇できるはずだと企んでいたところ、その予想は見事に外れてトリであったり。さらに天候の問題が加わることがある。京都あたりはOKでも滋賀の山間部に進めば否応なく氷点下近くへ下降し、あっという間に道路は凍結に近い状態となる。某国道、普通タイヤでなんとかなるだろうと油断して帰路に着くも峠の途中から雪が積もり始め、林間の鹿たちの光る眼に睨まれながらも自転車並みの速度にてかろうじて切り抜けたこともあった。
 さて、もうひとつの大きな条件は家族の理解である。ただ「どうしてもいかねばならないのだ」というライヴでは自らがオーラを放っているのを察するのか、黙って送り出してくれることのほうが圧倒的に多かった。というより、そもそもライヴ観戦は「どうしてもいかねばならない」から行くのである。
 とはいえ最大の条件は、じつは我が身の健康であった。このことは全てに優先して冒頭に持ってくるべきであったが若い頃には気づけなった。

中村とうようの呪縛

 田舎の高校生にとって、ニューミュージックマガジンの評論は当初あまりにもハードルが高かった。友人から教えてもらい、最初に求めたのは1977年1月号、ユパンキが表紙のものだ(ユパンキ、さえ存じなかった頃だ)。ちょうど同誌がロックから第三世界音楽を舵を切り替え始めたところなので今に思えばとっつきやすかったのかもしれない。そんな中でも、なによりも「とうようず・トーク」は一貫して、十分に、刺激的であった。しかし90年代、氏の老いとともに同コラムがテレビドラマ感想、あるいは「死者に鞭うつ」言説が増え、いっときのパワーが感じられなくなった頃に雑誌じたい購読を中止した。とはいえその後も、いや氏の死後十数年、未だに当方のなかで大きな存在であり続けている。はたして中村とうようは権威を超えた存在であったのか。
 
1.清涼飲料水はのまない
 話は、埴谷雄高VS吉本隆明の論争に先行する頃。元来は純粋に《甘ったるい飲料は嫌いだから》という言いっぷりであり、潔いものであった。《口にあと味が残るのはスッキリしなくてイヤ》なのである。他にも《最小販売単位の内容量が大きすぎる》《道ばたにはアキカンゴロゴロ…》。あくまでもみずからのライフスタイルを重視、外出時には柿茶を持参していたという。当方も真似をして試みたところ、抽出に失敗、下宿部屋には数日間、苦い匂いが滞ってしまい、以来、挑戦していない。なお80年代に入ると、コイン・ヴェンダー批判は電気消費量、功利主義、などの定型的なイデオロギー論点に移っていくのだが、こういった頭でっかちな話というよりも、この件に関しては、氏が携帯の瓶柿茶を詰めてさっそうと外出していく、そんな光景を未だに思い浮かべるのである。
 
2.自家用車には乗らない
ここでも論点は交通問題、エネルギー問題と大風呂敷を広げるわけではなく、車に乗ることへの優位性⇔乗らない者への、気づきにくい階級制が指摘された。例えば、そこ退けそこ退けと言わんばかりにクラクションを鳴らす車。もしも言葉で「どけ」と言ってしまえば大喧嘩となってしまうところがこのように済まされることへの批判、《ハンドルを握ると全く別の感覚領域に入る》、わざわざ歩行者が苦労する歩道橋のことなど。もちろん東京など大都会だからこそ車がなくても可能な生活であったのだが。その後、JAFの機関誌でも原稿が掲載されていたのを覚えているが、そのめずらしいページの切り抜きはしまいなくしてしまった。そういえば水木しげるが車に乗せてもらったとき「自転車に乗っている人が馬鹿にみえますな」などと言っていたような。
 地方の大学では学生の多くがマイカーを所持していた。当地は氏が語る大都市とは相当に事情は異なるのだが、それでも贅沢品であることには相違なかった。当方はマイカーを所持しない、クラスで数パーセントの部類のままであった。その代わり、というよりも必携であったのは自転車であり、みずから〈某大学の古尾谷雅人〉を気取っていた(通じないか…)。
 
3.成田空港は使わない
 ここまでくると、若い人には(そこそこの年齢の方だとしても)既にちんぷんかんぷん、おそらく〈カルト〉なんだろうとSNSで貶めたいところだが、そもそもなにを口走っているのか理解できないではないか。
 飛行機というものこそ最も〈贅沢〉極まりないとみなしていたようで、日本航空ジャンボ機墜落事件の際には、すさまじい批判を展開した。その対象は企業ではなく、乗客に対してであった。とうようトークでは、編集会議を経て内容に自己規制かけたと自ら告白している。それでも犠牲者の家族の神経を逆なでするのには十分な内容であった。《子供を遊びのために飛行機に乗せてやるなんてことは…夏休みが終わったあとの学校で、ジャンボ機に乗ってディズニーランドを見て来たぞ、と自慢したからだ。金の力で子供の虚栄心を満足させてやるのが、親の愛情何ですか?》《(墜落した)あの夜のうちに救助隊を出していれば生存者がふえただろうに、なんて声が出た。とんでもない、とぼくは言いたい。あんな深い山奥に夜中にヘリコプターで降りるなんて、非常に危険なことだ。瀕死の重傷者がひょっとしたら助かるかもしれないという僅かな可能性のために、どうしてそんな危険を冒す必要があるのか。》そして幾分冷静に、《飛行機の乗客はけっして一方的な被害者ではない。好きこのんで飛行機という危険なものに乗ったのであり、戦災の被災者などとは根本的に違う》。いまでもテレビで事故〇周年のニュースをみれば、最初に頭に浮かぶのはとうようずトークなのである。
 ちなみに、とうよう氏は執筆当時でも一切乗らなかったわけではなく、仕事の上では利用していたとのことだが、あくまでも安易な使い方はしない、という意味であった(その後、インドネシアポルトガルなど訪れたのは周知のとおり)。
 大学生時代に当方、名古屋シネマテークにて正午から22時閉館近くまでぶっ続けで、小川紳介監督作品を延々と鑑賞、ぐったりと帰路につくことを数日間体験した身としては、その《教え》にも納得、少なくとも安易な卒業海外旅行などは計画できなかった次第。
 
4.音楽評論について(部分)
 本業の音楽評論について。SNSのいま、ネット上では「0点」ばかりが幅を利かせているが、その話題とは外れて。真正面に音楽評論への評論はここでは手に負えず。一点、「音楽を聞く態度」についてメモ。
 曰く、《初めての曲を聞いて未知のものにぶつかる喜びと、記憶をなぞっていく楽しみと、このふたつは本来まったく異質のものであるはずだ。》《音楽を聞くときに得る喜びの中から、記憶をなぞる楽しみという部分を分けて考えるような自己点検の訓練が必要だ》。このあたりことは幾度か繰り返されて言及されており、高校生の当方としてはガツンとやられてしまうのだ。でジャクソン・ブラウンとか、ニール・ヤングの新譜を聴くときなど妙に後ろめたくなるにいたってしまった。
 だが最近、数十年を経て、その《記憶をなぞっていく楽しみ》を避けて聴いていた《未知のものにぶつかる喜び》を与えてくれた音楽を再体験することによって、その数年を経ることによって《記憶をなぞっていく楽しみ》と化してしまうことに気づく。結局はすべてが決壊、涙なみだの日々となってしまっているのである。ピアソラしかり(勿論フィギュア・スケートのBGMではないもの)、ヘイシャンミュージック(これで泣く人って?)、マイーザ、etc.
 弁明を兼ねての追記だが、とうよう氏は《初めての曲を聞いて》だとしても想像力で《記憶をなぞっていく楽しみ》が可能なリスナーではなかったか。とうよう氏でさえも青春を回顧し、懐かしがることがなかったわけではなかろうか。例えばNMM増刊・年鑑78収録の「とうよう100選」では平野愛子「港のみえる丘」を選出、《あなたと二人で来た丘は港の見える丘/色褪せた桜唯一つ寂しく咲いていた》、また雪村いづみ『スーパージェネレーション』のうち〈新曲〉「昔のあなた」などはいかがだろうか。《おもいがけずこんなところで二人逢うなんて/あまり急で何を私 言えばいいのでしょう/若い時のあなたと同じままの笑顔で/立っていた私の前に 優しい人》。

渡辺勝

御本人との最初の邂逅は早川義夫復活劇だ。そもそもライヴに向かうという習慣が当方になかった頃だが、異様な熱気の名古屋ボトムラインで、その空気を蹴散らすように凄まじいエレクトリック・ギターが披露された。当方、以降、早川義夫のライヴには出かけていないけれども(要らんことを書いてしまった)。
 
しかし渡辺勝との、ほんとうの「出会い」となれば、なんといっても沖縄Groove、off note 主催のいくつか重ねられた企画〈夢の隊列〉だ。開演は21時あるいは22時過ぎ、当然に深夜になだれ込むセッション。終演後…朝まで飲んで過ごすというスタイル。※〈夢の隊列〉がボックスとしてリリースされたのは北海道での音源であり、沖縄でのセッションは未発表のまま。これはDeadのように十数枚組でリリースすべきものだ。
ある晩、「いつも同じ曲じゃつまらないでしょ」との口上で歌い始めたのは「春三月」の初演ではなかったか。《春三月/あなたは消えた》。そのとき、会場の後方片隅に十代とおぼしき少女が椅子に座っていた。こんな夜更けだけれども沖縄だからなせる技か。その少女は泣いていた。私も《あなたは消えた》の一行でうるんでいた。懐かしの名曲ではなくて「新曲」で揺さぶられるとはどういうことか。ところが目を離した次の瞬間、すでに少女の姿はなかった。どこにもいなかった。私は驚愕した。これは泉鏡花の世界ではないかしらん。
 
「シル・バラッド」「コト・バラッド」。ヴォーカリストとしての渡辺勝の力量に触れたのは生悦住さんだった。とりわけスロー・バラードとなった「東京」。ちりばめられた《最後の晩餐》《銀のフォーク》といった歌詞、なによりも氏の風貌から、渡辺勝は敬虔なクリスチャンではないかという先入観に囚われていた。本人はあっさり否定したけれども。
 
おまつとまさる氏。最初に目にしたのは2006年Tokuzoのことだ(当初はこれもoff note企画であった)。まだネーミングがない頃の話。《白いシャツにネクタイを巻いて、長い髪を上に丸く束ねて、戸惑うようでいて挑発的な眼差しで、ミュージカルの断章のように、渡辺勝との息の合うステージが印象的、と思いきやレコーディングも済ませているという》と当時記している。このユニットに名前がついてパーマネントに続くとは予想せず。いったい何が起こっているのか、せっせとK.D.Japonへ通う時期があった。渡辺勝の「名曲」を松倉さんが歌うことで旧いファンを篩にかけたかもしれない。しかしこれは年齢差はあれども男女の織り成す「ミュージカル」に他ならなかった。その後、松倉さんの新曲は少なかったけれども(失礼)、同じ曲が常にちがった表情をみせる。たとえば、心に残っているのは、渡辺勝がボロボロのアコースティック・ギターで緩いサンバ調にバッキングする「愛しい人」。エンディング、ギターが終わるときに松倉さんが字余りのように「いとしいひと」とふと呟くテイク。
 
シールズからのCD「ライヴ’77 ぼくの手のひらの水たまり」は発掘ライヴ音源。スタジオ・レコーディングされなかった珠玉の名曲が詰まっている(とりわけ「窓の外は」)。マイクがどこかにぶつかる音もなんのその。(当方が執拗に言及する)残そうと意図した音源ではなくたまたま残された音源だ。渡辺勝は、このような作品の成立に親和性があったのではないか。とりわけ、おまつとまさる氏では宅録の音源とライヴ音源を組み合わせたCDRを多数、世に著した。豪華なんやらスタジオでのマスタリング、とは程遠い。しかし渡辺勝は予算の問題ではなく、音を築きあげていくことを殊更、好んでいたのではないだろうか。
 とはいえ無論、音に無頓着なわけがない。京都・ろくでなしで(しつこいようだが)残された音源をノーカット2枚組で制作された際、プレスCDは図らずも勝手なマスタリングされてしまい、納得がいかなかった。よって本作を購入するともれなくオリジナル音源のCDRがつく、という手間のかかるリリースとなっている。
 
作家主義から離れて。ソロの「ファースト」「セカンド」は同定できる。しかし以降の、彼のソロ・アルバムはというと通し番号は付けにくい。前述、off note関連のリリースは特徴的で、ソロ名義なのにソロ・ボーカルは他のミュージシャンが多数に参加、逆に「エミグラント」との名義ではほぼ全編ソロで歌っているという、コンセプチャルな内容が続いていた。だが渡辺勝を単に「フォーク・シンガー」ではなく、プロデューサー、時代精神、そして歴史を内包していく人物であるということ。その点で、off note の諸作は今後、新たな謎解きがおこなわれることを期待したい。
 
既にすべて終わってしまった、廃墟と化した世界(これは近未来ということではなく、例えば、身近に申せば「スピリットを切らした」1968年以降でよいのだが)。その荒涼とした風景を舞台に、なおも歌い続けることのできるミュージシャン。一聴、ほのぼのに聞こえるかもしれないけれども苛烈な世界を奏で続けることのできる稀有のミュージシャンを自分は幾名かを念頭に置いている。渡辺勝はもちろんその一人である。
 
2nd「HELLO」がCDで復刻された頃に車内でよく聞いていたところ、ことばをしゃべりだした娘が「たんぽぽ/らっかさん」というフレーズにだけ反応し口ずさんでいたことも思い出します。

「高山’s CAMERA」に寄せて

本作の成り立ちを申せば、リリースを前提にせず記録され残されたデータと、対照的に本作品として公開を前提に撮られた「映画」が組み合わされ、望月本人により編集されたという事情をもつ…と注釈をつけても説明には程遠い。ただネット等に溢れる映像の公式リリースを期待する輩には肩透かしを喰らう。もちろん、演奏のパートも含まれている。ではそれ以外がプライベート・フィルムかといえば断じてちがう。冒頭、パーティの一場面のようにみえるかもしれないが、前もって選曲されたパフォーマンスである。とはいえ、パブリック・イメージである「サキソフォンインプロヴィゼーション」と他の部分もまったく同等の要素となっているは自明のことであったので、ビデオカメラを準備し、いつものように記録した。なんら打ち合わせもないので、彼の一挙一動に集中する。生憎、死角に移動されてしまい、苦し紛れにガラス越しに撮らざるを得ない場面もあり、これもまたひとつの価値を生み出している。本作は望月治孝の作品群のなかで、最も孤高の位置を占めることにちがいない。そもそも望月治孝という存在じたいがその位置を占めているというのに。

「映画」の原案はブランショ『アミナダブ』とのこと。翻訳は存在するものの、撮影時には不覚にも未読であった。当日、まったく白紙の状態で「望月監督」の指示でカメラを動かした。これまで何十回も彼のライヴに向かったが、映画製作のカメラマンの如き振る舞いは当方の人生で最初で最後ではないだろうか。深夜の薄暗いホテルの廊下で、望月治孝と彼の〈影〉を追う。ライヴの一回性からは遠ざかり、繰り返しテイクがつくられていく。いったい終着点はあるのか。あてどなく不安に包まれた成り行きへ進むのか。いやそれは杞憂であった。際限のない行為のようでもあるが、私にはその反復の過程に意味が滲み出る。想定された、期待の地平へ向かうのではなく、それぞれのテイクもまた一回性であり、お互いに新たな発見であったと言える。これは自分が再三、経験してきたものと同様ではないかと。

当方が撮影を終えて連想したのは、小川国夫の短篇「アポロナスにて」である(またしても小川国夫か!と呆れてください)。第二短篇集『生のさ中に』の末尾に据えらえた作品。海中に建てた石像が行方不明となり、男と「私」が交互に海に潜って探すのだがみつからない…あらすじはこのくらい。聖書を題材とされているが(そもそも小川国夫の作品は国内外どこであろうと畢竟、聖書の世界なのだが…)徒労に終わるかもしれない、繰り返される作業。しかしながら行為の流れは目的を越えて、他者とのかかわりの原形につきあたるようだ。望月治孝のライヴに通うことはLP「PAS」のライナーで《巡礼》と表していた。この撮影もまた、時間は凝縮されているが、同じ系列にあたるのだと気づく。はたして、ブランショキリスト教徒であったどうかは存ぜず。《巡礼》ということばは、佐藤宗盛のライナーノーツにも現われる。

同ライナーの氏の母親のことばを引用すれば、《あんたたちがやってることは全部、世の中を馬鹿にしてるってことだよ》。おそらくは母親と当方こそ年齢は近いだろうが、我が子に向かって放つことばとしては懇切丁寧、見事に〈世間〉からの一撃である。この一撃は本作に対してもふさわしい、いや当方じしんに対して、なのだが。世間へどう寄与しているというのか。ただ鋭い母親の敢えての発言、そこには無意識に羨望の心の動きも含まれてはいないだろうか。本作もまた、間違いなく贅沢のかぎりを尽くした、孤高の創造物なのだから。

追:2024年11月、CDrが省かれた〈通常盤〉がリリースされた。しかし〈通常盤〉も実質〈限定盤〉なのでぜひご購入を。